啄木という「ナルシスト」ー『我を愛する歌』
たしかに啄木の詩には自然がある、秋風がある、生活がある、人物がある。だが彼はそれら「そのもの」のうちに畏怖や雄大、憂愁を発見し、軽やかに歌いあげる、そんな詩人ではなかったのではないか。
ある立派な〈大いなる彼の身体〉の〈前にゆきて物を言ふ時〉、啄木は自らの貧相な身体に比較して鬱々とした卑屈を感じ、〈憎かりき〉という。別の詩で、〈一人は死に、一人は牢を出でて今病む〉のは、どちらも〈我に似し〉友人の二人である。また友に〈乞食の卑しさ厭ふなかれ〉と語りかけるのは、乞食を憐れんで同情しているからではない。そうではなく、〈飢えたる時は我も然りき〉なのだから、乞食を忌避するのはよせという。
すなわちこれらの詩においては、憧憬されるべき・悲嘆されるべき・憐憫されるべき他者すらも、啄木にとっては、自己を相対化し、「我」の輪郭を明瞭にするためのいわば「触媒」でしかないのである。
啄木の体の貧弱や経済の困窮を考えれば、「我を愛する歌」という題は、一種皮肉な自虐ともいえよう。だが思うに、彼は本当に「我」を愛してやまなかったのではないか。たとえそれがどれだけはかなく惨めで物寂しいものであったとしても。
「実直にも鬱屈としたナルシスト」、石川啄木という人をこう評したいのである。
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