2018.09.12 11:00『こころ』の概略 〈私はその人を常に先生と呼んでいた〉―「先生」とはすでに死んだ人のことである。 「私」の不思議と惹かれる「先生」とは、交流がほとんど「私」と妻に限られていて、厭世的で口重く、後ろめたい過去を感じさせるような、いわゆる「淋しい」人間であることを自ら任ずる人である。鎌倉の浜で出会って以来その人の家に出入りするようになった「私」は、その交際を...
2018.08.29 11:00啄木という「ナルシスト」ー『我を愛する歌』 たしかに啄木の詩には自然がある、秋風がある、生活がある、人物がある。だが彼はそれら「そのもの」のうちに畏怖や雄大、憂愁を発見し、軽やかに歌いあげる、そんな詩人ではなかったのではないか。 ある立派な〈大いなる彼の身体〉の〈前にゆきて物を言ふ時〉、啄木は自らの貧相な身体に比較して鬱々とした卑屈を感じ、〈憎かりき〉という。別の詩で、〈一人は死...
2018.08.22 11:00「受動的」グレーゴルと「身体」ー『変身』 〈ある朝、グレーゴル・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な虫に変っているのを発見した。〉―唐突にも奇虫へと変身していたという彼の「発見」は、ほとんど他人事のようである。 グレーゴルの「変身」の理由には最後まで一切の説明がない。いわゆる「不条理」である。しかし彼は身に降りかかったこの「不運」をただ一瞥す...
2018.08.08 14:40それは独歩との「散歩」ー『武蔵野』 〈武蔵野の俤は今纔に入間郡に残れり〉―独歩の感じ得た「武蔵野」とはなんであろうか。 鴨長明「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の叙景は、独歩の「武蔵野」へと応用されるであろう。透いてみえる陽光がきらめいては砕かれるのはいずれ落葉せねばならない黄ばんだあるいは夏の名残とばかりにしがみついた緑黄色の葉である。すでに落葉したら...
2018.07.25 11:00ゆでたまごとレズビアンの美的愛ー『卍』 『卍』の叙述はほとんど全てが園子夫人から先生(すなわち作者である谷崎)への告白であって、いわゆる「レシ」という小説形式をとっている。園子の連綿とした「おしゃべり」から、ただ初めと終わりのカギカッコを取り除いた文体であると考えるとわかりやすいであろう。 彼女らの話し言葉は、単に我々の考える関西弁とはやや異質であるかと思われる。〈もし間違...