『こころ』の概略

 〈私はその人を常に先生と呼んでいた〉―「先生」とはすでに死んだ人のことである。


 「私」の不思議と惹かれる「先生」とは、交流がほとんど「私」と妻に限られていて、厭世的で口重く、後ろめたい過去を感じさせるような、いわゆる「淋しい」人間であることを自ら任ずる人である。鎌倉の浜で出会って以来その人の家に出入りするようになった「私」は、その交際を懐かしんで、〈人間らしい温かい〉ものであったと振り返る。この交際について語られるのが第一章「先生と私」である。

 「先生」が誰をも信用せず、ついに自分すらも猜疑するようになったのはなぜか。〈恋は罪悪〉であると断言し、〈金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になる〉のだと、一見言いはやされた格言を教えた「先生」が離れえない「ほの暗い秘密」、〈私の未来を貫ぬいて、一瞬間に私の前に横わる全生涯を物凄く照らし〉たその「黒い光」とはなんであったか。

 「私」は父が危篤であるという報を受けて、「先生」に暇乞いをして東京を発ち国元へ帰る。第二章「両親と私」において語られる、国元での「私」と兄・母・親戚らによる父の看病のさなかに届いたのが、東京から送りつけられた「先生」による手紙、最後の「遺書」であった。


 第三章「先生と遺書」より、テクストは「先生」が人称を担った遺書という形式へと移行する。

 「先生」の財産は巧妙に掠め盗られたのであった。そしてそれは、父母の死んだ、まだ学生だった「先生」の叔父によってなされた芸当であった。「先生」は疑い深くなった、厭世に親しんだ。だがこれは他を卑しんで己を深く信ずるの精神的な運動に過ぎない。〈この己は立派な人間だという信念〉がもろくも粉砕され、〈自分もあの叔父と同じ人間だと意識〉するに至った、光の漏れようもないもうひとつの黒点が、「先生」の人生を堅牢に縛り付けていたのである。


 〈Kは自殺して死んでしまったのです〉という「先生」の秘密の告白は、簡素かつ円滑であり、それを読む者に同情や驚嘆を煽動することなどまったく考慮していない。

 東京の下宿のようなものを営む母娘の家へ泊まるようになった「先生」は、そこの御嬢さんに恋をする。そして同じくそこへ寄宿するようになった親友のKとの間で、男女の三角関係へと陥るのである。この三角関係は、Kから御嬢さんへの淡い恋心の相談を受けて思わず体を硬直させ、また自らの恋心はそのとき秘匿のままにしていた点において、「先生」にのみ眺望された構図であったといえるだろう。「先生」はKをかねてから親しくもまた疎ましくも感じていた。寺生まれのKは強情で実直で、自分の「道」には恋を不要と考える男であった。そしてそのKから、恋愛に懊悩する今の自分が恥ずかしいと表明されたとき、「先生」は、一分の間隙も見逃さぬ切り込みによって、見事な致命傷を与えたのだった。

 〈精神的に向上心のないものは、馬鹿だ〉―こう言われたKは、「覚悟」という言葉を使って、すでに死を決めていたのかもしれない。あるいはその後伝えられた、「先生」と御嬢さんとの結婚の取り決め―「先生」は抜かりなく先手を打っていた―を知ったとき、いよいよ決断したのかもしれない。いずれにしても、Kは、血潮を〈襖に迸ばし〉らせて自ら死んだのである。

 先生はそれから煩悶し苦痛に苛まれた、そして〈死んだ積りで生きて行こうと決心した〉。


 過去を話すという「私」との約束を果たし、Kと同じ道、すなわち自殺の決心をした「先生」は遺書の最後にいう、〈あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、凡てを腹の中にしまって置いて下さい〉。


ある文学作品の概要、およびひとつの「解釈」が生きる場所

ある文学作品の概要、 および ひとつの「解釈」が生きる場所

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