それは独歩との「散歩」ー『武蔵野』
〈武蔵野の俤は今纔に入間郡に残れり〉―独歩の感じ得た「武蔵野」とはなんであろうか。
鴨長明「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」の叙景は、独歩の「武蔵野」へと応用されるであろう。透いてみえる陽光がきらめいては砕かれるのはいずれ落葉せねばならない黄ばんだあるいは夏の名残とばかりにしがみついた緑黄色の葉である。すでに落葉したらばその鋭利な梢にとまった小鳥の囀りの響は、起こっては消えゆく木枯らしのさざめきに交わりを結んで、虚空をしきりに揺らす。または幾千通りの小道、これは林を貫通し、野をだらだらと上がったかと思うと二又に分かれ、農家の畑をかすめて、ふと見つけた秘境の池の発見を喜んでいるといつの間にやらまた林に回帰しているような果てない無限の道であるが、これの散歩に苦を見出したり、ましてや引き返すようなことは「愚」であるという。〈迷った処が今の武蔵野に過ぎない〉のである。
「変化」、決して二度は同じ景色を現前せしめないということ、これこそが「武蔵野」一級の美観である。
だが「武蔵野」の真の興は、自然そのもののみではないらしい。色移ろいやすい楢の林と茫漠とした萱原のうちには、百姓の畑や馬車引く蹄の落ち葉を蹴る音が点在している。すなわち雄大な「自然」には、〈大都会の生活の名残〉と〈田舎の生活の余波〉とがおのおの融和したような、たしかな「生活」の痕跡が脈々としているのである。
見給え、と独歩はいう。片眼の犬、料理屋に渦巻く土とも煙とも判然としない香り、小さな野菜市、家々をわたる蝿たちを見給え。独歩と我々とのいわば「散歩」は、最後にはひとつの泥臭い俗な人間の「生活」へと帰着するのだ。
独歩は「武蔵野」の自然のみを称揚したのではない。自然とそこに息づく人々の活動との「調和」にこそ、至上の詩趣を感じ得たのである。
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