「異端」がみた「正統な」人間ー『人間失格』
「恥の多い生涯を送ってきました。」―そして、実際、ここまで「人間」であることをやめた人間はいないのではなかろうか。
主人公の「自分」には、生来いわゆる「人間」というものが理解できず、「それ」が普通に感じているに違いないはずの、苦悶や幸福、虚栄といった類のほとんど一切が類推され得ない。彼はその「人間」、家族にすらも、たえず恐れおののいて脅かされているように感じ、それゆえに、他者との接触はお道化、誤魔化し、茶化しといった欺瞞、いわば「仮面」によってのみ成立しているのである。
「交際」はどれもすべて、真剣を離れた、表面上の円滑に終始している。
彼の視線は、いままさに接している個別的他者を超えた、「総体としての人間」をたえず見つめている。「人間」への怯懦は、どれも具体的個人ではなく、抽象的人間へ向いている。「自分」が初めて〈微弱ながら恋の心の動くのを自覚し〉、ついには情死を決意した相手の女性すらも、回顧してみれば、その名前は〈記憶が薄れ、たしかでは〉ないものとなっているのだ。
「自分」は、他者との真剣な交際を離脱した「非接触の人間」といえるであろう。そして、金の欠乏、女の安寧、酒の享楽のうちに退廃しながら、とある病院の一室で、彼は「人間を失格」するのである。
「人間失格」――狂人と成り果てた彼、「人間」を脱落した異端の彼、しかし彼ほど、「人間」をめぐる真実、すなわち「他者理解の絶対的無理」というひとつの真理に、鋭敏にも苛まれ続けたものはいないのではなかろうか。
「自分」はいう。〈ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔辞なんかを読んでいるのではないでしょうか〉。
彼の「人間失格」は、むしろ我々「人間側」の無自覚で奇妙な異常、何事もなく「健やかにも」理解し・笑い合い・対立しているはずである営みの奇怪を浮き彫りにしているのではないだろうか?
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