ゆでたまごとレズビアンの美的愛ー『卍』

 

 『卍』の叙述はほとんど全てが園子夫人から先生(すなわち作者である谷崎)への告白であって、いわゆる「レシ」という小説形式をとっている。園子の連綿とした「おしゃべり」から、ただ初めと終わりのカギカッコを取り除いた文体であると考えるとわかりやすいであろう。


 彼女らの話し言葉は、単に我々の考える関西弁とはやや異質であるかと思われる。〈もし間違うてあて死んだら光ちゃん死んでくれるなあ?〉〈姉ちゃんかてそうやわなあ?〉―そのねっとりとした柔和さにはどことなく余裕ぶった憎らしい感じがあって、高尚ゆえの高慢がある。


 そして何より『卍』を特徴付けているのが、これが同性愛、レズビアンカップルを描いているということである。裕福な良家を出た園子は、同じくお嬢様である光子との間にできた「同性愛の噂」を追うかたちで関係をもつ。彼女らの愛がいわゆる「不純かつ禁断である」とされるのは、決して同性愛にのみよるものではない。二人にはそれぞれに、男性の夫と恋人がすでにいるのである。思うに彼女たちの愛は、「正常な」異性との恋愛的関係とのあいだにおいて絶えず脅かされ、またある意味では逆に輝かしく燃え盛っていたのではないだろうか。結末に彼女ら、正確には園子と光子にある一人を加えた三人がもたらしたのは、もっとも「退廃的で美しい愛」の姿なのである。



 園子と光子は仲違いから和解して若草山へ向かう。かつて同じ場所で蕨や土筆を採っていた二人が再び「山と山の間にある谷」へ行くと、そこは「草や木ばっかり仰山繁ってて」、彼女らは「草のぼうぼう伸びてる陰」に落ち着く。カップルの素朴で微笑ましい出先である。

 しかしこの一見凡庸な密会場所は、「女性の秘部」のメタファーではなかろうか。すなわち、二つの山は脚の付け根を、性器にあたる谷に群生する草木は陰毛の隠喩なのである。そして、二人がその「秘所」へ行く直前に昼ごはんの代わりとして、わざわざ「固茹で卵」を食すことも示唆的である。「生殖」の結果としての「卵」が「凝り固まっている」のは、同性愛が子どもを宿すことの「不可能性」を意味しているといえよう。

 その場所で園子は、〈時間も、世の中も、何もかも忘れて、私の世界にはただ永久にいとしい光子さん云う人があるばっかり〉という閉じた世界を悟り、情事へと没入するのである。



ある文学作品の概要、およびひとつの「解釈」が生きる場所

ある文学作品の概要、 および ひとつの「解釈」が生きる場所

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